★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ビートルズの背中を追いかけたモンキーズ(393)

The Beatles Let The Monkees Use This Iconic 'Sgt. Pepper's' Song for their  Series Finale Episode

1 レコードの売り上げが上回った

ビートルズモンキーズを比較するなど論外だ」と言う人がほとんどでしょうね。確かに、あらゆる点で勝負にならないことは分かり切っています。しかし、モンキーズのレコードが1966年から1967年にかけて、ビートルズローリング・ストーンズを合わせた売り上げを上回ったんです。束の間の栄光に終わりましたが。

モンキーズは、ビートルズの背中を追いかけ、レコードの売り上げで彼らを抜いた瞬間もあったのですが、その後、圧倒的な差をつけられてしまいました。「アメリカのビートルズ」になることは、見果てぬ夢に終わったのです。

 

 

2 アメリカでグループを募集

(1)オーディションを開催

バンドメンバー募集の広告

1964年のエドサリヴァン・ショー以来、ビートルズは、全米を制覇しました。彼らに続いてローリング・ストーンズなどのイギリスのロックバンドが次々と全米を制覇することになったのです。

アメリカのポピュラー音楽界は、この「ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)」現象に危機感を抱きました。そこで、アメリカでもスターとなるグループを作ろうとオーディションを開催することにしました。1965年9月8日、デイヴィー・ジョーンズ、マイク・ネスミス、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツの4人がメンバーに選出されました。

(2)作られたバンド

オーディションという形式は採っていたものの、デイヴィーには先に声をかけていました。実は、彼は、イギリスのマンチェスター出身の舞台俳優・歌手であり、ビートルズエドサリヴァン・ショーに初出演した時に「オリバー!」のキャストとして出演していたのです。

つまり、ビートルズのようにメンバーが自然に集まって結成されたのではなく、あくまでも「作られたバンド」だったわけです。彼らは、やがてヒット曲を連発することになりましたが、このことがずっと尾を引くことになりました。

3 テレビ番組はモロパクり

(1)映画のパクり

When the Beatles' First Movie, 'A Hard Day's Night,' Premiered

ビートルズをモロにパクったスチール写真

面白いことにモンキーズというバンド名も、ビートルズと同じように人間以外の生き物の名前をもじったものです。モンキーズは、ビートルズの最初の映画「A Hard Day's Night」からヒントを得て、4人の若い気ままなミュージシャンのテレビ番組を作るというコンセプトで結成されました。

このシリーズは、モンキーズビートルズの影響をモロに受けていることを隠そうとはしませんでした。むしろ、潔いくらい堂々とパクっていたのです。

モンキーズのテレビ番組の最初の回のストーリーでは、マイクがビートルズのポスターにダーツを投げつけていました。それは、たまたまリンゴに命中しました。別の回では、4人のメンバーが地面に横たわり、頭を寄せ合ってつぶやいていますが、これは「A Hard Day's Night」のパクりです。

(2)堂々とパクっていた

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上はテレビ番組のテーマ曲ですが、映画「Help!」かと二度見するほどのパクり振りですよね。他の回では、デイヴィーのイギリス人の祖父がアメリカに訪ねてきます。ポールの祖父が「A Hard Day's Night」でビートルズを引っかきまわすという役割をそのまま頂戴しています。最後の回でも、メンバーが目覚まし時計とレコードプレーヤーで目覚め、ジョンが歌う「Good Morning  Good Morning」が鳴り響いています。

ほとんどすべてのエピソードで、メンバーが駆け回るというビートルズが映画でやったシーンそのままに、陽気に騒いでいるのが特徴でした。

 

 

4 人物像も寄せて作った

冠番組でコントを演じるモンキーズ

人物像もビートルズに寄せて作りました。ジョンとマイクは、それぞれのグループのリーダーであり、最も抜け目がなく、いつもジョークを言い、ユーモアのセンスに長けていました。二人とも他の3人よりも年上に見えました。実際にマイクはそうだったんですが、ビートルズはリンゴが最年長でした。

ポールとデイヴィーは、グループにおける恋愛ストーリーの主人公で、最もルックスがよく女の子にモテるという設定でした。ポールのバラード曲は「イエスタデイ」ですが、デイヴィーは「I wanna be free」と口ずさむのがトレードマークでした。リンゴとピーターは、それぞれ「可愛いお調子者」という設定で、それぞれのチームのお笑い担当で、それぞれのグループで愛される存在でした。

モンキーズの中で最も才能のある歌手であるミッキーと「静かなビートル」ジョージは、少し設定が難しい存在でした。流石にこの二人は、ちょっと結びつきませんね。

 

 

5 ヒット曲を連発した

(1)当初は演奏も作曲もしなかった

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デイヴィー以外の3人は、ギターは弾けたのですが、モンキーズは、デビュー当時は、バンドとしては全く演奏しませんでした。彼らは、デビューしてから練習して演奏できるようになったのです。

デビュー当時は、作詞作曲も自分たちではやらず、他のソングライターに任せていました。あくまでビートルズに対抗して作られたアイドルグループでしたから。これもデビューしてから自分たちでやるようになりました。

普通こんな風にパクっても大抵の場合は失敗するのですが、モンキーズは大成功しました。ヴォーカルがうまかったことと、ソングライター・チームがいい曲を提供してくれたおかげです。自分たちの冠番組を持っていたのも大きかったですね。

(2)ヒット曲を連発した

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モンキーズは、1966年に「Last Train to Clarksville(恋の終列車)(トミー・ボイス、ボビー・ハート作)」でシングルデビューを飾りました。この曲は「Paperback Writer」がフェイド・アウトするのにインスパイアされて作られたという話です。そういえば、テーマも歌詞も「Ticket To Ride(涙の乗車券)」をなぞってる気がします。

でも、この曲は、大ヒットし全米チャート1位を獲得しました。今聴いてもちょっと哀愁を帯びながらもノリの良いナンバーです。

そして、1967年に入ると「I'm A Believer(ニール・ダイアモンド作)」1位「A Little Bit Me,A Little Bit You(ニール・ダイアモンド作)」2位「Pleasant Valley Sunday(ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング)」3位とヒット曲を連発しました。そして「Daydream Believer (ジョン・スチュワート作)」という歴史に残る名曲を発表しました。おそらくこの頃が彼らの絶頂期だったでしょう。

6 ビートルズとも交流があった

(1)ジョンはコメディアンとして見ていた

ビートルズは、1966年から67年にかけての自分たちをパクっているモンキーズの大成功にも全く動じませんでした。ジョンは、モンキーズを「マルクス兄弟以来の面白いコメディ・チームだ」と言い、彼らのテレビ番組を「一度も見逃したことがない」と付け加えました。しかし、ジョージは「彼らがすべてを解決したら、最高の存在になるかもしれない」とその可能性について語っています。

(2)ビートルズは好意的だった

ジョンとマイク

ビートルズは、ビーチ・ボーイズをライヴァルと見なしていましたが、モンキーズは、自分たちのマネをしているタレントという程度の認識だったのでしょう。ですから、好意的に彼らを迎え入れました。

1967年にモンキーズがイギリスに来たとき、ビートルズは、スピーク・イージー・クラブで盛大なパーティーを開きました。マイクは、ジョンの自宅へ夕食に招かれ、家族ぐるみの友人になりました。マイクは「A Day in the Life」のレコーディングにも参加しました。ポールは、ミッキーと知り合いになり「サージェント・ペパー」のレコーディング・セッションでは、歓談している姿が目撃されています。

(3)自分たちで制作したアルバムがチャート1位に

1967年、モンキーズのアルバム「Headquarters」が全米チャート1位を獲得したのです。これは、彼ら自身で作曲し演奏もして制作しました。制作サイドに言われるままに役割を演じてきた彼らでしたが、やっとミュージシャンとして認められたと喜んだことでしょう。しかし、その成功は1週間しか続かず、「サージェント・ペパー」に取って代わられてしまいました。

7 ジミ・ヘンドリックスがオープニング・アクトに

ジミ・ヘンドリックスモンキーズのツアーに参加することを報じた新聞

1967年2月、ジミ・ヘンドリックスは、モンキーズの1967年の北米ツアーのオープニング・アクトを務めることになりました。嘘のような本当の話です。

ヘンドリックスは、既にメジャーデビューしていて音楽関係者からは、その才能を高く評価されていました。イギリスに来た彼の演奏を聴いたエリック・クラプトンは「誰も彼のようにギターを弾くことはできない」と呻き、ジェフ・ベックに至ってはギターを止めようかとすら考えたのです。しかし、彼は、まだ一般の人々にはそれほど知られていませんでした。

彼は、オープニング・アクトで「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」というバンドを率いて、過激なテクニックとサウンドを聴かせたのですが、それがモンキーズのファンの反発を招いてしまい、ブーイングを受け7公演のみでツアーを去ってしまったのです。

そりゃ、モンキーズのファンの女の子たちとジミヘンでは水と油ですよ。モンキーズは、ヘンドリックスをとても気に入っていたのですが、残念ながらファンには通じませんでした。しかし、彼は、当時人気絶頂だったモンキーズのオープニング・アクトを務めたこともキッカケとなって知名度が上がり、やがてスーパースターになっていきました。

8 絶頂期は短かったが

1968年3月にテレビシリーズが終了するとともに、モンキーズの人気も下降線を辿っていきました。作品を発表しても商業的には成功せず、メンバーが次々と脱退し、ついに1970年に解散しました。

モンキーズの絶頂期は短いものでしたが、それでも歴史的な名曲を残してくれました。

 

 

(参照文献)トゥデイ・アイ・ファウンド・アウト

(続く)

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