★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

マルは悲劇的な最後を遂げた(455)

マルが警官に射殺されたことを報じる新聞記事

1 映画「Let It Be」

(1)ビートルズは逮捕されたかった

アップル社の屋上に駆けつけた警官と話すマル

ルーフトップ・コンサートの撮影中に警官がやってきた時のことをポールはこう語っています。「カメラが届かないように忍び込んできたマルから、警察が演奏を止めろと言っているということを聞かされたんだ。僕らは『止めない』と言った。彼は『警察に逮捕されるぞ』と言った。そいつは、いい映画の終わり方だ。彼らにやらせればいい」*1

ビートルズは、むしろ逮捕された方が面白い画が撮れると思っていました。ビートルズが警察に逮捕されて終わるなんて最高のエンディングじゃないかと。本当に逮捕されたって、どうせすぐに釈放されるでしょうしね。彼らはお気楽なものですが、板挟みになったマルはたまったもんじゃありません。

1968年のアップル社設立後、マルは、正式にロード・マネージャーからビートルズの個人アシスタントに昇格しましたが、週給38ポンドは変わりませんでした。これはちょっと酷い話ですよね。アップルは、湯水のようにお金を使ったのに、彼の給料は据え置きだったなんて。

(2)プラスティック・オノ・バンドのローディー

トロントのライヴで演奏するジョン

マルは、1969年9月にトロントで行われた、ジョンが初めてソロ・アーテイストとして率いたプラスティック・オノ・バンドのデビュー・ライヴとなった、トロント・ロックン・ロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァルのローディも務めました。何だかこう言うと彼がこき使われていたみたいですが、本人は、結構楽しんでいたようです。

マルは、こう語っています。「私は、本当に楽しんでいた。3年ぶりのライヴで、アンプをつないだり、ステージをセッティングしたり、すべてがちゃんとセットされていることを確認したりするのが本当に楽しかった。飛行機で駆けつけてくれたアラン・クライン(ビートルズの二人目のマネージャー)が、ジョンのパフォーマンスをすべて撮影するよう段取りを組んでくれた。おまけにダン・リヒターによりビデオ撮影も行われた」久しぶりのライヴでウキウキしながら機材をセッティングしているマルの姿が目に浮かびます。

 

 

2 バッドフィンガーをプロデュースした

(1)バッドフィンガーを発掘した

マルがプロデュースしたバッドフィンガー

1960年代後半、マルは、ロンドンのクラブで演奏していたアイヴィーズという若いグループに目を付けました。彼は、このグループを気に入り、アップル・レコードの上層部にこのバンドと契約すべきだと提案しました。マルは、バッドフィンガーの初期のアドヴァイザーであり、アップルからリリースする最初のオリジナル・アルバムをレコーディングする段階になったとき、彼らは、プロデュースをマルに任せました。音楽の専門家ではない彼にプロデュースを依頼したとは驚きです。

マルは、エンジニアリングやレコード制作により直接的に携わっていた、同じくビートルズOBのジェフ・エメリックにレコーディング・プロセス全体を通して支援を受けました。それでも、バッドフィンガーのファースト・シングル「No Matter What」がリリースされたとき、この曲のプロデューサーはマル一人とクレジットされていました。

(2)「No Matter What」がチャート5位を獲得

www.youtube.com

当初、「No Matter What」は、シングルとしてリリースできるほど強力な楽曲ではないと考えられていました。エメリックがこの曲のリミックスに参加して初めて、アップルの幹部らはこの曲をリリースすることに同意したのです。バンドは以前、ポールが書いた曲「Come and Get It」で全英チャート4位を記録していましたが、バッドフィンガーが自作曲でも成功できることを証明したのは「No Matter What」でした。

1970年に「No Matter What」が最高5位に達したとき、マルは、プロデューサーとして初めてトップ5シングルを獲得したのです。それは、彼自身の音楽人生における最高の瞬間だったかもしれません。しかし、ジャッキー・ロマックスの「New Day」のプロデュースと、キース・ムーンのソロアルバム「Two Sides of the Moon」の数回のセッション以外では、マルは、プロデューサーとしての役割を続けませんでした。「No Matter What」のヒットは、多分にバッドフィンガーの才能とエメリックのおかげでしょう。

 

 

3 悲劇的な最後

(1)回顧録を執筆中だった

マルは、1970年にクラインによりアップルを解雇されましたが、後にポール、ジョージ、リンゴの意向で復職しました。1973年に妻のリリーと離婚し、ロサンゼルスに移り住み、恋人のフラン・ヒューズと暮らしました。そこで回顧録「Living The Beatles Legend」の執筆に取り組み、1976年1月12日に原稿を出版社に届ける予定でした。

1月5日の夜、マルは、アメリカのロサンゼルスにあるアパートで、離婚したことで意気消沈していました。彼の行動を心配したヒューズは、この本の共同執筆者であるジョン・ホーニーに電話をかけ、アパートを訪ねさせました。ホーニーとの会話中、マルは、銃を手に取り、威嚇するように振り回したのです。その銃は、空気銃だったとも弾の入っていない30口径のライフルだったとも言われています。

(2)警官に射殺された

ロス市警にマルが薬物を飲み精神が混乱していて、銃を持っているとヒューズが電話しました。まもなく4人の警官が到着し、そのうちの2人が2階の部屋に入ってマルと話しました。彼は、銃を捨てるように警官から命じられたのですが、それを拒否したのです。身の危険を感じた警官は、マルに6発発砲し、うち4発が命中して彼は即死しました。

ポールは、こう語っています。「マル・エヴァンズは、1976年にロス市警に撃たれた。とてもクレイジーなことだった。マルは、愛すべき熊のようなローディーだった。彼は、ときどきやり過ぎることもあったが、彼のことはみんな知っていたし、何の問題もなかった。ロス市警はツイてなかった。彼が2階でショットガンを持っていると聞かされ、駆け寄ってドアを蹴破って彼を撃ったんだ」

「彼のガールフレンドは、『彼は、少し精神がおかしくなっていて薬物を飲んでいる』と話していた。私がその場にいたら、『マル、バカなことを言うなよ』と言えただろう。実際、彼の友人なら誰でも汗をかかずに説得できただろう。しかし、彼のガールフレンドはロサンゼルスの女性で、彼のことをよく知らなかった。彼女は、警察を呼ぶべきじゃなかったんだ」*2

マルは、一体どうしてしまったのでしょう。薬物の影響で一時的に錯乱状態に陥っていたのでしょうか?彼がイギリス人でアメリカが銃社会であることをよく理解していなかったこと、そして、彼のガールフレンドが彼のことをまだよく知らず、警察沙汰にしてしまうという不幸が重なり、この悲劇を招いてしまいました。

 

 

4 遺品がオークションにかけられた

オークションに出品された「A Day In The Life」の手書きの歌詞

マルは、1976年1月7日にロサンゼルスで火葬されました。遺灰は、イギリスへの旅の途中で一時的に失われましたが、後に回収されました。ビートルズの未発表音源、写真、記念品が入っていたと思われるスーツケースは、その後の捜査の過程で失なわれたのです。本来、遺族に返却されるべき遺品が失われたのは、それがビートルズと深く関係し、オークションにかければお宝になる可能性の高いものばかりだったからでしょう。

1992年、ジョンが書いた「A Day In The Life」の手書きの歌詞が、ロンドンのサザビーズでマル・エヴァンズの遺品として56,600ポンドで売却されました。しかし、1996年、ポールは、かつての妻リリーが「With A Little Help From My Friends」の歌詞を売却するのを阻止し、マルは、仕事の一環として歌詞を収集したのであり、それらは作家のものだと主張したのです。

1998年、マル、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴが書いたメモ、絵、詩、そして「Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band」「All You Need Is Love」「Hey Jude」の歌詞が書かれたノートがオークションで111,500ポンドで落札されました。コレクターにとっては喉から手が出るほどの逸品ですし、ビートルズの歴史を語る貴重な品々であることは間違いありませんが、誰かが盗んだものだと思うと何だか悲しい気持ちになります。

 

 

5 ついに回顧録が日の目を見ることに

出版されたマルの回顧録

マルは、グロセット・アンド・ダンラップ社と契約し、ビートルズ公認の回顧録を執筆することになっていました。しかし、その矢先に悲劇的な最期を遂げてしまったのです。それから約50年後、出版社の派遣社員が倉庫の地下室で眠っていた彼の原稿やその他の資料を発見し、それらは、ヨーコの協力でマルの家族の下に戻されました。

そして、その後、ケネス・ウォマックは、きらびやかなスタイルの文章ではないにせよ、厳密さと慎重さをもってマルが果たせなかった仕事を完成させたのです。実践的なビートルズ研究家である彼は、丁寧に仕事をこなしても熱狂的に筆を走らせたりはしませんでした。多くの人々の努力があって、ビートルズの貴重な記録が世に出ることになったのです。

(参照文献)ザ・ビートルズ・バイブル、ファーアウト、ザ・ニューヨーク・タイムズ

(続く)

この記事を気に入っていただけたら、下のボタンのクリックをお願いします。

にほんブログ村 音楽ブログ ビートルズへ
にほんブログ村

下の「読者になる」ボタンをクリックしていただくと、新着記事をお届けできます。

*1:アンソロジー

*2:アンソロジー