★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョンとポールの不思議なパートナーシップ(297)

Paul McCartney reveals that he has "a lot of dreams" about John Lennon

1 二人のコンポーザーが助け合う

(1)初期は互いにサポート

Austin Kleon — Paul McCartney and John Lennon writing “I Saw Her...

そもそもビートルズは、ジョン・レノンポール・マッカートニーという黄金のコンビ、すなわち「レノン=マッカートニー」という強力なタッグがエンジンとなって、バンドを牽引していました。一つのバンドに二人もコンポーザーがいる。しかも、二人とも作詞も作曲もできる。こんな贅沢な組み合わせはありません。そして、このコンビの最大の強みは、「どちらかがメインで楽曲の制作を開始し、行き詰まった時にはもう片方がサポートする」ことで完璧な楽曲を制作できたということでしょう。

初期は、二人が本当に額を寄せ合うようにして楽曲を制作していました。しかし、このような作詞作曲方法を採用していたのは明確にいつまでと断定はできませんがおそらく1963年辺りまでではないでしょうか?やがて二人は別々に楽曲を制作するようになり、サポートすることは段々となくなっていきました。

 

(2)音楽の方向性の違い

The Daily Beatle has moved!: The final UK Tour December 1965

1965年のアルバム「Rubber Soul」の頃になると、多少それぞれの楽曲の制作をサポートすることはあったようですが、それぞれがほとんど一人で制作することが多くなりました。さらに1966年以降には、それぞれが独自に全く方向性の違う楽曲を制作し、しかも、それが共存できたという奇跡的なコラボが成立したことです。

バンドがアルバムを制作する場合、音楽の方向性は一致しているのが普通です。ところが、ビートルズは、音楽の方向性が明らかに変わっているのもお構いなしに、それぞれで楽曲を制作しました。その最たるものが1968年の「White Album」でしょう。その前年にリリースされた「Sgt. Pepper〜」が一つのコンセプトで貫かれていたのとは真逆の統一感のない作品ですが、それがアルバムとしてちゃんと成立しているから不思議です。

ビートルズがポピュラー音楽のジャンルにありながら、長く世界中で愛される秘密の一つは、ジョンとポールの二人(ジョージを加えて三人)の作風の違いから、実に様々なヴァラエティーに富んだ楽曲を制作したことです。とても一つのバンドが制作したとは思えません。年によってアルバムによって傾向が変わっただけでなく同じアルバムの中でも全く違うジャンルの曲が入っていたりする。他のバンドでは、アルバムを制作する前に空中分解していたでしょう。

 

(3)同じコンポーザーの作品なのか?

White Album」では、ジョンとポールの作風の違いも顕著になっていますが、同じコンポーザーの作品でもこれが同一人物の作品かと思わせるようなものがあります。例えば、ポールの作品に「Why don’t we do it in the road?」がありますが、歌詞の内容はちょっとここで書くのがはばかられるほど卑猥なものです(^_^;)しかし、その直後に小品ながら美しいバラードである「I will」が収録されていおり、これまた同じポールの作品なのです。とても同一人物の作品とは思えませんね。

このように音楽の方向性が違ってきたということは、双方が制作をめぐって対立してしまうというマイナスの側面もありましたが、お互いが競争相手として意識し、自分の楽曲の制作に励むという意味で良好なライヴァル関係という側面もありました。この事実は、ビートルズの解散の理由が「音楽の方向性の違い」だけだとは、必ずしも言い切れないということとも関連しています。もちろん、それも重要な要素には違いありませんが、それだけで片付けられるほど簡単な問題ではないのです。

2 ジョンとポールの掛け合い

(1)「Strawberry Fields Forever」と「Penny lane」

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1966年の秋、ビートルズから9週間ほど別行動をしていた間に、ジョンは、ある曲を書きました。当時、彼は、スペインの田舎にいて、映画「How I won the War」の撮影中でしたが、歌詞は、リヴァプールの少年時代の象徴であったストロベリー・フィールドにあった児童養護施設にさかのぼっています。11月下旬、ビートルズは、ロンドンのアビイ・ロードにあるEMIスタジオでこの楽曲の制作を開始しました。4週間と何時間ものセッションの後、ビートルズは、12月22日、「Strawberry Fields Forever」を完成させました。

そして、その約1週間後の12月29日、ポールは、リスナーをリヴァプールのもう一つの象徴へ連れていく楽曲をビートルズに持ち込んだのです。「Penny lane」それは交通量の多いロータリーであり、彼の実家の近くにある良く知られた待ち合わせ場所です。ジョンが制作した楽曲にポールが応える。このような掛け合いは、珍しいものではありませんでした。

ジョンとポールは、「お互いの楽曲に応える習慣があった」とポールは後に語っています。「ジョンは、『Strawberry Fields』を書いた。それを聴いて、私は、どこかで『Penny lane』を書いた...お互いに競い合っていたんだ。でも、それはとても良い意味で競争していたんだよ。」この頃の二人は、後のようなギスギスした関係では決してなく、「あいつがあんな良い曲を作ったんだから、オレも一つ作ってやろう。」といったとても健全な競争心がありました。

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(2)誤解されやすい関係

これは有名なエピソードです。ポールは、ジョンとのパートナーシップの協調性を強調していました。彼は、彼らの競争が彼らを「常により良いものにした」と語っています。しかし、この短いエピソードでは、ビートルズ時代の多くの曲と同様に、ジョンとポールが独立して作曲しているという考えに気を取られてしまいがちです。実際、二人をそれぞれ別のクリエイターとして理解する必要があるという考え方をする人の方が主流かもしれません。

この話がややこしいのは、ビートルズに詳しい人々の多くが「レノン=マッカートニーといっても、実は、ジョンとポールがそれぞれ別個に制作した楽曲の方が多い。」と理解し、あまり詳しくない人は「全部彼らが共同で制作した。」と理解していることです。これらの考え方は、ある意味において正しいともいえますし、間違っているともいえます。

なぜ詳しい人々がそのように理解したがるかというと、おそらくそのような天才的な創造的関係が成立した例が数少ないせいかもしれません。ですから、多くの人々は、二人のうちのどちらかに比重を置きたくなるのだと思います。そうしなければなんとなく落ち着きが悪いというか、理解しづらいからかもしれません。

優れたロック評論家のグレッグ・コットは、1990年にジョンとポールは「ソングライティングのクレジットを共有していたが、その名の通りに共同して楽曲を制作したことはほとんどなかった」と書き、「彼らの『パートナーシップ』はコラボレーションというよりも競争だった」と記載しています。彼は、ウィリアム・J・ダウリング著「Beatlesongs」のレヴューの中でこのような見解を述べています。

著名な評論家であるコットに物言いをつけるのは恐れ多いのですが、こういった見解は、やや問題の本質を単純化しすぎているような気がします。彼らのコラボレーションには複雑な要素があり、このように単純化してしまうことは、むしろ問題の本質から遠ざかってしまうのではないでしょうか?

 

3 天才的なペアの貢献度を測ることは困難

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ティーヴ・ウォズニアックとスティーヴ・ジョブズ

(1)創造的なペアは実在する

何世紀にもわたって、孤独な天才たちの神話は私たちの上にそびえ立ち、その影は創造的な仕事が実際にどのように行われるのかを曖昧にしてきました。ジョンとポールは、ビートルズ解散後それぞれソロとしても高く評価されていますが、やはり、レノン=マッカートニーとしての業績が素晴らしく創造的だったことは誰しもが認めることです。孤独な天才の神話は、創造的なペアについての一連のパラドックスに取り組むことを妨げています。コラボレーションの成果が高ければ高いほど、むしろ、それはどちらかがより大きな貢献をしたからだと考えたくなります。

しかし、想像的なペアは実在するのです。彼らは、いわばDNAの二重らせん構造のようなもので、彼らのうち、どちらがどれだけチームとしての業績に貢献したかを正確に判定することは極めて困難です。

(2)二人のスティー

世界初のパーソナルコンピューターである「Apple I」をこの世に送り出した二人の天才、スティーヴ・ジョブズとスティーヴ・ウォズニアックを例にとりましょう。ジョブズは、一般の人にもよく知られていますが、ウォズニアックは、パーソナルコンピューターの歴史に詳しくない人でなければ知らないでしょう。この二人のどちらがどれだけアップルコンピューターの開発に貢献したかを正確に把握することは困難です。ただ一ついえるのは、「どちらが欠けても、アップルはこの世に誕生しなかっただろう。」ということです。

彼らのパートナーシップは、ウォズニアックがアップルを退社するという形で10年ほどで終わりを迎えました。これは、「このようなパートナーシップは、そういつまでも続かない。」ということを象徴しているのかもしれません。

 

(参照文献)ジ・アトランティック

(続く)

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