1 解散後に和解し、セッションまでしていた
(1)ジョンとポールは和解していた!
このブログでは、基本的にビートルズの解散後のことについては触れない方針なのですが、今回は、重要なことなのでちょっと寄り道してみます。「ジョンとポールは解散後、一度も再会することのないままで終わった。」と誤解している方も多いかもしれません。しかし、実は、二人は、解散後に再会した際に和解し、一度だけセッションまでしていたのです!
(2)意外と知られていない
このことは、意外と知られていないかもしれません。何しろ解散直後は犬猿の仲になっていた彼らが、世間が知らないうちに和解していたんですから。そのことを知っていたのは、たまたまその場に居合わせたアーティストや関係者たちだけでした。しかし、多くの人々が二人の歴史的和解の場に居合わせたため、結局、その噂は世間にどんどん広がっていくことになりました。ジョン自身も自らそのことについてインタヴューに応えましたしね。
今回、このことについて触れるのは、「ジョンとポールが解散後もずっと対立したままだった。」という世間にありがちな誤解を解いておかなければいけないと感じたからです。解散後のことではありますが、皆さんには、この事実を是非知っておいて頂きたいので、敢えて筆をとることにしました。
2 ポールが突然ジョンを訪問した
(1)一度も会っていなかった
ビートルズは、解散後もジョン、ジョージ、リンゴの三人は、ソロ活動として一緒にレコーディングしました。80年代に入ってからも、公式リリースとしてスタジオで、ジョンを除く三人のメンバーが集合しました。
しかし、ジョンとポールが同じセッションに参加することはありませんでした。そういったこともあって「ジョンとポールは、解散後一度も会ったことはなく、ましてやセッションなどもしなかった。」と思うのが普通ですよね。
(2)握手し、ジョークを交わした
しかし、1974年3月28日、ロサンゼルスのバーバンク・スタジオで、二人は、コカインを吸引して騒いだ夜に、実際にコラボレーションしたのです。それは、長年にわたるビートルズ再結成の噂を引き起こすのに十分なものでした。
ジョンが飲み仲間のハリー・ニルソンの「プッシー・キャッツ」をプロデュースしているときに、ポールと妻のリンダが突然訪ねてきたのです!二人は、とりあえず握手し、内輪ネタのジョークを交わしました。
3 なぜ会いに行ったのか?
(1)理由は分からない
なぜ、ポールが突然ジョンを訪れたのかは分かりません。彼は、わざわざ会いに行ったというより、たまたま近くにいたからということでしょう。
解散直後こそ激しくやり合っていた二人でしたが、もうこの頃にはそういった感情も消えて、普通に話し合える間柄になっていたということですね。後は、再会するきっかけさえあれば良かったのです。
(2)ちょうど良いタイミングだった
ビートルズが1970年に解散した後、ジョンは、そのショックから比較的早く立ち直り、1971年に「Imagine」を大ヒットさせましたが、ポールは、長い間ショックを引きずっていました。ようやく1973年になって「Band on the Run」を大ヒットさせて吹っ切れたのでしょう。ジョンが近くにいると聞いて、ポールも今ならもう会えると判断したのではないでしょうか?
(3)ビートルズ時代のコントで挨拶
ジョンは、会いに来たポールに対し、ビートルズが初期の頃に開催したパフォーマンスしたクリスマス・スペシャルの中で演じたコントのセリフにちなんで「勇敢なポール・マッカートニーとお見受けしますが?」と挨拶しました。ポールは、それにすぐ応えて「勇敢なジャスパー・レノンとお見受けしますが?」と返しました。
これは、1963年12月24日から1964年1月11日まで行われたロンドンのフィンズバリーパークにあるアストリアシネマの「ビートルズ・クリスマスショー」で演じたコントのセリフでした。ジョンは、「サー・ジャスパー」という悪役で、黒いマントをはおりヒゲをつけ、シルクハットを被っていました。それにしても、二人とも10年以上も前のちょっとしたコントのセリフをよく覚えていましたね(^_^;)
4 最後となった二人のセッション
(1)ジョンとポールがセッションした!
ジョークを交わした後、ジョンとポールは、1969年の「アビイ・ロード」以来初めてとなる、そして、残念ながら最後となってしまったジャムセッションを始めたのです!彼らは、音楽という共通のグラウンドを再び見出し、また、ビートルズ解散を巡って何年にもわたって争ってきた中で生まれた互いの嫌悪感を、酒やドラッグなどの助けを借りて和らげたのです。
(2)豪華なメンバー
その場には、スティーヴィー・ワンダー、セッション・ギタリストのジェシー・エド・デイヴィス、サックス奏者のボビー・キーズらも同席していました。そして、大量のコカインも用意されていました。
しかし、このようなオールスターが参加したにもかかわらず、音楽のパフォーマンスとしてはあまり良い出来ではなかったのです。「Cupid」「Chain Gang」「Lucille」など、50年代のオールディーズな曲が構成のない緩いジャムで演奏されましたが、散漫な仕上がりになりました。
彼らが普段の状態であれば、一流のミュージシャンたちばかりですから、即興のセッションであってもちゃんとまとまったはずなんですが、酒とドラッグでそんなコンディションではなかったのでしょう。
ただ、残された音源を聴く限り、さすが一流のアーティストたちだけに、それ程グダグダだったようには思えません。もっとも、演奏の仕上がりなどはもはやどうでもよく、解散後にジョンとポールがセッションしたという事実が重要なのです。
5 後にレコードになった
(1)正式なレコード
この時演奏された「Stand By Me」は、後の1975年2月にリリースされたジョンのアルバム「Rock 'N' Roll」で再度取り上げられ、改めて公式にレコーディングされ収録されました。このアルバムは、全英10位、全米6位を獲得しました。さらに、3月にシングルカットされ、全英30位、全米で20位を獲得しました。
ジョンは、ジャムセッションでこの曲を演奏している間、ヘッドフォンのサウンドにずっと文句をつけていました。ある瞬間、ジョンのヴォーカルが完全に抜け落ち、ポールとニルソンのハーモニーだけが残りました。ジョンが歌詞を忘れたか、何かに気を取られたのでしょうか?相変わらずジョンらしいですね(笑)
リトル・リチャードの「Lucille」は、ポールがビートルズ結成当初から大好きでカヴァーもしていた曲ですが、この曲が彼の唯一の重要なヴォーカル・コラボレーションとなっています。
(2)海賊版も発売された
その間、ジョンは、何度も酒のおかわりを要求し、その間にこう言っているのがはっきりと聞こえました。「スティーヴ、スノートするかい?トゥートはどうだ?みんな、やってるぜ。」
スノートもトゥートもここでは本来の意味ではなく、コカインを吸引するという意味のスラングとして使われています。この言葉からあの伝説的な海賊版のレコードのタイトルが誕生しました。
それが「A Toot and a Snore in '74」です。海賊版でなければ、こんなモロに薬物を連想させるタイトルで発売はできなかったでしょうね(^_^;)ただ、あくまで海賊版なので音源が本物かは疑義のあるところです。
(3)ジョンのインタヴュー
ジョンは、その後のインタヴューで「ポールと一緒にジャムをやった。」と応えています。これがその時の記録です。1974年か1975年の初め頃と思われます。「本当にポールと一緒に演奏したんだ。L.A.ではいろいろなことをやったけど、他に50人もの人が演奏していて、みんな僕とポールを見ていた。」
そりゃ、誰だって必死で見ますよ(^_^;)何しろ解散後、ジョンとポールが一緒にセッションしたのは初めてなんですから。
実際には、ジョンがリードヴォーカルとギターを担当し、ポールがハーモニーとドラムを担当していました。ワンダーも少しだけヴォーカルをとり、エレクトリック・ピアノを弾きました。リンダがオルガンを担当し、ジョンの愛人メイ・パンがタンバリンを叩いていました。
ニルソンもヴォーカルに参加しています。他にはギターのデイヴィス、サックスのキーズ、そして隣のスタジオでドン・マクリーンのプロデュースをしていたエド・フリーマンのベースといった構成でした。
1983年に出版された「Loving John」という本の中で、パンは「あの夜、彼らは、一緒に楽しい音楽を演奏した。」と書き残しています。観てみたかったですね〜、このシーン。
このお話は、まだ続きがありますが、長くなるので次回で。
(参照文献)アルティメット・クラシックロック
(続く)