★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ブライアン・エプスタインに秘書としてスカウトされたフリーダ(448)

リンゴとジョージとともに

1 ビートルズに片思いしていた

ビートルズの秘書、フリーダ・ケリーについてのお話を続けます。ある時点で、彼女は、ファブ4のそれぞれに片思いをしていたことを告白します。記者が「そのときめきがもっと深刻なものになったことはあったんですか?」と質問すると、「そうよ!」と言って彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべました。

「私たちは、みんなティーンエイジャーだったのよ。想像してごらんなさいな」それはそうですよね。10代の女の子がビートルズのそばにいて何も感じないはずはありません。いくら仕事だとはいえ、そう簡単に割り切れるものじゃありませんからね。

2 娘に説得された

(1)孫のために

取材に応じるフリーダ

ビートルズへの忠誠心から長年にわたり沈黙を守り続けてきたフリーダでしたが、娘のレイチェルから彼らとの想い出を語るよう説得されました。「娘が『想い出の箱がもうすぐ壊れちゃうよ。認知症が始まる前にそうしなさい』って言うのよ」とフリーダは笑います。「孫のナイルに、おばあちゃんが若い頃に何をしていたのかを知ってもらうために、小さな映画を作りたかったの。彼は3歳です。彼に誇りに思ってもらいたいのよ」

娘の説得が決め手になり、フリーダはようやく重い口を開く決意を固めました。これはとても重要なことだったと思います。彼女が望むかどうかに関わらず、彼女の証言が音楽史にとって貴重なものである可能性が存在するからです。サインなどの形のあるものなら、未来永劫残される可能性はありますが、証言はその人が何も残さずに亡くなってしまったら永遠に失われてしまいます。

(2)映画監督ライアン・ホワイトに連絡した

そこで彼女は、アメリカの映画監督であるライアン・ホワイトに連絡を取りました。彼の叔父は、マージービートのビリー・キンズレーでビートルズの同時代の人物でした。ホワイトは、リヴァプールの音楽シーンに関わる人々に囲まれて育ち、フリーダは彼の友人の一人でしたが、彼は、彼女の過去については全く知りませんでした。

ビートルズの地元で音楽に囲まれて育った友人ですら、彼女のことを知らなかったのです。フリーダがビートルズの秘書を務めていたと聞いて、さぞかし彼も驚いたことでしょう。いかに彼女が裏方に徹して、表に出ないようにしていたかがよくわかるエピソードです。

3 ついに映画が制作・公開された

(1)ホワイトが映画制作を決定

ライアン・ホワイト

「あの現場にいる人たちは、あまり話題に上らないんだ」とホワイトは2013年9月のインタヴューで説明しました。「(ビートルズの秘書としての)彼女の在任期間や仕事の重要性を知ったとき、私の心は完全に吹き飛んだよ」

ブライアン・エプスタインのようなカリスマ的なスタッフでもない限り、裏方が表舞台に出ることはまずありません。しかし、フリーダは、ビートルズのメジャーデビュー当初から解散してしばらくまで、ずっと秘書を務めていたのですから、当然いろんなことを見聞きしていたはずです。どんな貴重なエピソードを知っているか聞いてみなければわかりません。

自分の手中にあるものに気づいたホワイト監督は、フリーダに長編ドキュメンタリー映画の撮影に応じるよう説得し、リヴァプールでの3週間の撮影費用5万ドルをクラウドファンディングで集めようとしました。この映画は2013年初め、テキサス州オースティンで開催されたサウス・バイ・サウス・ウェスト映画祭でプレミア上映されました。最後のクレジットが終わると、フリーダは、観客から5分間のスタンディングオベーションを受けました。

(2)撮影に至るまでの苦労

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ホワイトは、不可能に近いことを達成しました。それは、ビートルズのオリジナル曲の内4曲をサウンドトラックに使用する許可を得たことです。アップルは、著作権にとてもうるさいのでなかなか許てくれないのです。

ポールとリンゴ、ジョンとジョージの遺産管理団体の許可が必要だったことを考えると、並大抵のことではありませんでした。「私は、簡単に感銘を受けるタイプではない」とフリーダは語っています。「でも、監督がスカイプで4曲あると告げたとき、私は感激で胸が一杯になったの。『彼らは、まだ覚えてくれているんだ』と思ったわ」使用されたオリジナルは、「I Saw Her Standing There」「Love Me Do」「
I Feel Fine」「I Will」です。

4 I saw the Beatles standing there

(1)キャヴァーンで衝撃を受けた

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フリーダは、16歳で学校を卒業し、タイピストとして訓練を受けていました。彼女は、市内の会社で安定した秘書の仕事に就いていました。ある昼休みに、ビートルズが演奏していたキャヴァーン・クラブに彼女を最初に誘ったのは彼女の同僚でした。彼らの演奏を聴いた途端、彼女は衝撃を受けました。

「衝撃を受けたのは彼らが何を演奏しているかだけではなく、彼らのすべてだった」と彼女は回想します。「ステージ上の彼らの様子よ。当時は革ジャンを着ている人は誰もいなかったけれど、彼らはそうしていた。ステージでは、彼らは、いつもお互いの間をうろうろしていた。彼らが変なことをするのを見て、誰もが自分もその一部になりたいと思ったものよ」

フリーダを含めて熱狂的なファンは、ビートルズの一挙手一投足に興奮したのです。

私がただ彼らを見上げて『この曲を演奏して』とリクエストすると、彼らはそれに応じてくれるか、『いや、その曲はやりたくない、別の曲を演奏するよ』と言ったものよ。私は、彼らがセットリストを作っていなかったと思うわ」

まだ彼らが革ジャンを着ていた頃ですね。ブライアン・エプスタインと出会う前で、まだまだ粗削りだけど、とても魅力にあふれていた頃の彼らです。

(2)父親はビートルズとかかわることに猛反対していた

フリーダの父親は、そもそも彼女がビートルズの秘書になることに猛反対していました。彼女の母親は、彼女がわずか18か月のときにがんで亡くなっており、彼女は、男手一つで大切に育てられました。「私の家族は、全員、年金がつく仕事に就いていたけど、10代の頃は年金など気にしていなかったわ」と彼女は語っています。「彼は、私にこう言ったの。『私は、お前にそんな仕事をさせるつもりはない。その仕事には何の保証もない』ってね」

この時点では確かに父親の言う通りです。ビートルズは、まだリヴァプールのローカルバンドよ一つにすぎず、世界的なスーパースターになるなんて誰も思ってもいませんでしたから。

フリーダ以外は、年金が付くsteady jobに就いていたんですが、1960年初頭に10代だった彼女にはそんなことはどうでも良かったのです。

5 キャヴァーンに入り浸った

(1)父親はビートルズが大嫌いだった

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ビートルズにすっかり魅了されたフリーダは、向かいの果物市場からの「消毒剤、汗、腐った果物」の独特の匂いが漂う地下室にますますたむろするようになりました。それは、彼女がオフィスに戻るときに残る匂いだったので、仕事に遅刻した時に他の場所にいる振りをすることができなかったのです。オフィスに戻ってきたとすると、おそらく彼女が通ったのは、オフィスの昼休みの時間だったんでしょうね。強烈な悪臭を身にまとわりつけて帰ってきたらそりゃバレますよ。

フリーダは、オリジナルドラマーのピート・ベストを含むバンドメンバーと親しくなりました。時々、夕方、彼らの一人が彼女を家まで送り届け、激怒した父親がガウンを着て階下に降りて来て問題の青年を追い出すまで、夜中に外で大声で話していたこともありました。

まあ、仕方なかったでしょうね。男手一つで大切に育ててきた大事な娘が、こともあろうに不良のロックンロールバンドにうつつを抜かし、毎日毎晩通い詰めていたのですから。でも、一度点いてしまった火は消せませんでした。

(2)ブライアンにスカウトされた

ビートルズは、キャヴァーンで294回演奏しました(諸説あります)。フリーダは、少なくとも190回は通ったと記憶しています。誰もがすっかり常連となった彼女の顔を見慣れていました。

リヴァプールでNEMSレコード店を経営していたブライアン・エプスタインがビートルズをマネジメントする意向を発表したとき、彼は、フリーダに自分の秘書になってもらいたいと提案しました。彼は、NEMSストアの1階に事務机とタイプライターを用意しました。彼女の父親は、そんな仕事は1年も続かないだろうと言いました。個人経営のレコード店ですからね。いつ廃業してしまうかもわかりませんし。

「それで私はこう言ったの。『1年ちょうだい、18歳になったら全力で頑張るから』ってね」when I'm 64ならぬ18と彼女は宣言したのです。そして、その1年はやがて10年にも及ぶことになりました。つまり、彼女は、ブライアンのマネージャー就任とほぼ同時に彼の秘書になったのです。

フリーダは、ビートルズが成功するだろうと予感していました「私は、ただそう信じていたの。彼らがいつか有名になるだろうとは思っていたわ」しかし、どれだけ有名になるかはよくわかっていませんでした。彼らの才能にメジャーデビュー前から気づいていたのは、ブライアンだけではなかったんですね。

6 ファンクラブの管理

彼女の主な仕事の一つは、バンドに関する主な情報源であるファンクラブの管理でした。最初、彼女は自宅の住所を明かし、ファンレターに個人的に返信していました。しかし、その後、バンドは「Love Me Do」をリリースし、1962年にはUKチャートで17位に達しました(フリーダは、実はB面の「PS I Love You」の方を好んでいました)。

2枚目のシングル「Please Please Me」は5か月後にリリースされ、1位を獲得しました(公式チャートでは2位)。すぐに郵便配達員が1日800通のファンレターを持ってフリーダの家の玄関先にやってくるようになりました。彼女の父親は、あまり良い顔をしませんでした。彼女は、手紙が事務所に届くようにファンクラブの住所を変更しました。

自宅の住所を公開するなんて今なら信じられませんが、のどかな時代だったんですね。ビートルズが成功しても、父親は、「どうせあんな連中、すぐにいなくなるだろう」と思っていたのでしょう。それを抜きにしても、流石にこんな大量の郵便物が毎日届いたらさすがに家族も迷惑ですよね。

(参照文献)ザ・ガーディアン

(続く)

(追記)

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